2020.10.30 更新

ロードレーサーから、いつしか日本の
パラサイクリング界を支える存在に。
自転車を通じて"人を育てる"ために駆け回る毎日。

2012年に日本パラサイクリング連盟を立ち上げ、専務理事を勤める権丈泰巳さん。連盟の運営やパラサイクリング日本代表監督など多方面に活躍されていますが、大学まではプロの競技者をめざしてロードレースに打ち込み、卒業後、一度は家業を継ぐために競技の世界から離れたそうです。
そんな権丈さんがなぜ、人生を通してパラサイクリングに関わることになったのか、その経緯や自転車への思いについてお聞きしました。

profile
profile日本パラサイクリング連盟 専務理事
権丈 泰巳さん

出身は福岡県。中学生のときにツール・ド・フランスに魅了されたことがきっかけで、ロードバイクの世界へ。日本大学に進学し、選手として数々の大会に出場、海外遠征も経験。卒業後は選手を引退するも、大学時代の縁からパラサイクリングの日本代表監督に就任。2012年に日本パラサイクリング連盟を立ち上げ、現在は強化選手7名、登録選手30名のサポートと共に、普及活動に邁進している。

前編の「権丈さん」

  1. テレビ越しに衝撃を受け、ロードレースの世界へ
  2. 気がつけば日本代表コーチに就任
  3. 目に見えないところに、課題が潜んでいる

2020年8月。権丈さんとパラサイクリング連盟の強化選手がトレーニングをしていると聞いて、取材班は岐阜県と長野県の県境に位置する長野県木曽町を訪れました。山道の途中にあるカフェで待ち合わせをしていると、バンに乗って権丈さんが到着。合宿のときはいつもこのクルマに競技用の自転車や荷物を積み込んで、連盟所在地の福島県いわき市から約6時間かけて移動しているのだそう。トレーニングや大会の度に西へ東へ、さらには海外へ。パラサイクリングのために飛び回るその原動力は一体どこから来るのでしょうか。

Cyclingood
まずは、自転車との出合いを教えてください。
権丈さん
中学生のときにテレビで観たツール・ド・フランスがきっかけです。とにかくかっこよくて、その迫力は衝撃的でした。ロードバイクを持っている同級生に相談してみると地元のクラブチームに入らないかと誘われ、練習に参加するように。そこから一気にのめり込んで、その同級生と一緒にロードレースの大会にも出場しましたね。
Cyclingood
当時はプロの競技者をめざしていたのですか?
権丈さん
そうですね。高校も、家から遠いことを基準に学校を選びました。自転車通学にして、往復の移動時間を練習に充てるために(笑)。日本大学に進学してからは、海外遠征にも参加しましたし、インカレでは総合優勝に貢献することができました。あの頃はプロになりたくて、本気でロードレースに取り組んでいましたね。

Cyclingood
パラサイクリングと出合ったのもこの頃でしょうか。
権丈さん
はい。日本障害者自転車協会が発足されたのが1990年。その翌年から、部の活動の一環として協会の活動を手伝うことになりました。視覚障がい者の方をタンデム自転車の後ろに乗せて走るのが私たちの役目。参加者の多くは自転車に乗るのが初めてで、私がこぎ出すと後ろから「気持ちいい!」と歓声が上がりました。「乗れた!」と喜ぶ皆さんの姿に、私までうれしくなったのを覚えています。この『タンデムを楽しむ会』には、大学1年から卒業するまでの4年間、ずっと参加していました。
Cyclingood
競技者をめざしながら、ボランティアにも携わっていたのですね。卒業後も競技を続けていたのでしょうか?
権丈さん
それが、卒業を機にスパッとやめました。続けたい気持ちもありましたが、監督に「権丈は実家に帰って、家業を継ぎなさい」と言われて、体育会系だったので「分かりました!」と。福岡に戻って家業を継いでからは、昔所属していたクラブチームにもう一度入って、趣味として自転車を楽しんでいました。そうして数年経ったある日、クラブチームに義足の青年が訪ねて来て、「自転車に乗ってみたい」と相談されました。
Cyclingood
ここで大学時代のボランティア経験が活きてくるのですね。
権丈さん
そうなんです。軽いレクリエーションなら私もサポートできますから。まずは自転車の乗り方を教えようと、クラブのメンバーと一緒にサイクリングに行ったりしながら自転車の楽しみ方を伝えました。そうして何度か会っていると、「競技として、自転車に本気で乗ってみたい」と打ち明けられたのです。
Cyclingood
今でこそパラスポーツが広まっていますが、その頃はまだ、競技としてパラサイクリングに取り組んでいる団体は多くないのでは?
権丈さん
私も知らなかったのですが、調べてみると日本障害者自転車協会が競技者育成に取り組んでいることが分かりました。青年と2人で東京まで見学に行ったところ、そこに大学時代に『タンデムを楽しむ会』で知り合った協会のスタッフがいたのです。思いがけない再会に喜んでいたら、「今度、チェコでパラサイクリングの大会があるから来てよ!」と誘われて、その大会からスタッフとして参加することになりました。
Cyclingood
その頃は家業を継がれていますよね。二足のわらじを履くことに迷いはなかったのでしょうか。
権丈さん
迷いがなかったと言うより、気がついたらそうなっていたという感覚です。当時、パラサイクリングは知名度が低く人手も足りなかったので、参加当初から主戦力扱い。2004年のアテネパラリンピックからは日本代表コーチに就任しましたが、コーチと言ってもスタッフは私を含めてわずか2名。コーチをしながら自転車のメンテナンスや選手のケア、食事作り、大会会場までの送迎、その他ありとあらゆる業務を行う『何でも屋』でしたね。海外の大会では、英語が分からなくてもとにかくしゃべって、選手の分までコミュニケーションをとるように努めました。

Cyclingood
障がいのある方のコーチをするには、スポーツ以外の知識も必要になりそうです。
権丈さん
最初は知識も経験も少なく苦労しました。例えば、脳性麻痺の選手だと障がいの度合いによっては自分の判断で水分補給ができないことがあります。こちらが気をつけないと脱水の危険があるため、練習中に逐一「水を飲んで!」と声をかけなければなりません。ほかにも、聞いたことをすぐに忘れてしまうので何度も何度も同じ指示を出す、ということもあり、スポーツから離れたさまざまなフォローが必要でした。
Cyclingood
特に印象的だったことはありますか?
権丈さん
ある合宿に行ったときのことです。合宿所に到着した途端、一人の選手が「もう帰ります」と言うんですよ。
Cyclingood
まだ着いたばかりなのに!?
権丈さん
私も驚きましたね。でも後々考えてみると、彼はただ慣れない場所に戸惑っていたのだと気づきました。障がいと聞くと身体的なことばかりに注目しがちですが、私は彼らと接するうちに、身体的な障がいの裏側に不安やストレスといった精神面の課題が隠れてしまいやすいことが分かってきました。家族や身近な人さえもその課題に気づかず、ケアが遅れているケースも大いにあると感じています。
Cyclingood
目に見える"障がい"の陰に、他の課題が隠れてしまう...。
権丈さん
また、障がいがあると、できないことへの不満から投げやりになったり、周囲のサポートを当然と思うようになったりして、人として大切な素直さや感謝を失ってしまうこともあると感じています。素直でいることは、自分の弱点を自覚してアドバイスを聞き入れ、選手として成長することにもつながります。だからこそ私は選手みんなに、人に好かれ、応援してもらえる人間になってほしいと思っています。

パラスポーツならではの課題にぶつかりながらも、選手一人ひとりに寄り添うことでサポートを続けて来られた権丈さん。2004年のアテネパラリンピックから、北京、ロンドンと連続でスタッフとして参加し、チームを支えました。2014年には仕事を辞めて、人生の軸をパラサイクリング一本に定め、ついにリオパラリンピックで代表監督に就任されます。気になる詳細は、後編で。

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