Life Style ライフスタイル
2017.12.18 更新
こころとからだのあり方を探求し、
その知見とキャリアを町の活性化に注ぐ。
現在、大阪府河内長野市の市立林業総合センターの外部契約スタッフとして勤務されている倉橋さん。
しかしその経歴は、スノーボードクロスの競技選手、プロモーター、ヨーガインストラクターなどのさまざまな「顔」をもち、河内長野を自転車のまちとして活性化させるお仕事にも携われていました。倉橋さんの人生を振り返りながら、人と町を元気に、おもしろくするその思いと原動力に迫ります。
倉橋 陽子さん
大学卒業後、アパレルブランドの企画営業・MDなどを経験した後、スノーボードクロスの競技選手として活動。転職した会社でWeb開発プロジェクトを任されながらスノーボード選手としても活動を続ける中、大会でのケガをきっかけにヨーガに出会う。その後河内長野に移住し、「budokon」創始者のキャメロン・シェイン氏の日本でのプロモートを担当するなどさまざまなビジネスを手がける。出産をきっかけにヨーガスタジオを開設すると共に、河内長野市の地域活動に積極的に参画。
前編の「倉橋さん」
- スノーボードに夢中!
- ケガがをきっかけにヨーガの世界へ
- 河内長野への移住とプロモーターとしての活躍
2017年9月に大阪府河内長野市ではじめて行われた自転車イベント「奥河内booon!」。自転車レースだけでなく、音楽LIVE&キャンプあり、フードブースありというユニークな趣向でたくさんの大人と子どもがたっぷり2日間を楽しみ、大盛況に終わりました。このイベントの仕掛け人のひとりが、倉橋さん。
そして自転車愛好家にも活用されている河内長野の地域活性・交流拠点「奥河内くろまろの郷」の開業にたずさわっていたのも、倉橋さん。てっきり自転車業界に長く関わっていた方だと思っていたら、その経歴は「スノーボードクロスの競技選手」「プロモーター」「ヨーガインストラクター」というまったく異色の肩書ばかりがずらり。
しかも現在は河内長野市の外部契約プロモーターとして、河内長野市立林業総合センター
「木根館(きんこんかん)」にお勤めだそうで、またもや自転車とは別の世界のよう。
倉橋さんとはいったいどんな人なんだろう?どうして河内長野に?自転車の世界に?
というたくさんの疑問を抱えながら取材に向かいました。
ここはお勤め先の「木根館」。秋の台風が過ぎ去った後の、爽やかな気候の昼下がりです。
河内長野と同様ののどかな環境で生まれ育ちました。
でも、同じ大阪府内といえど、
河内長野のことはまったく知らなかったんですよ。
今日はそのあたりをじっくりお聞かせください。
まずはスノーボード時代についてお話いただけますか?
当時は趣味として楽しむ程度だったのですが、
アパレルに就職してからも長野県の白馬村に通っているうちにどんどん競技への意欲が高まりまして。
二足のわらじは無理だな、と自分で判断して会社を辞め、
25歳の冬にはスノーボードクロスの障害物競走の種目に出場。
2位の成績でした。
手伝ってほしいとお誘いいただきまして。
「冬は練習やレースで仕事ができない」と伝えると
在宅勤務制度を立ち上げてみないかと。
当時ではまだ珍しかったのですが
白馬村にいながら仕事ができるのはありがたく、
お受けすることにしたのです。
リハビリを兼ねてヨーガをはじめ、コンディション調整に活かしていました。
さらに3シーズン目の冬にカナダに遠征に行ったときにも骨折しまして、このときは右の肩脱臼、右手首粉砕骨折というどうにもならない状況。
何もできないのでヨーガの書物「ヨーガ・スートラ」などを読んでいたら私のそのときの状況にピタリとハマったんです。
答えと実践方法が書かれていまして、
弱っていた私の中にスーッと入ってきたんです。
ヨーガの別の魅力を見つけた時間でしたね。
南米に行かれるんですよね。
プロスノーボーダーの牛山奈穂美さんから「南米に行かない?」と
お誘いいただいたのはちょうどインターネットが世の中に
広がりはじめた頃でした。
南米の風景やスノーボード・サンドボードシーンを私たちが地球の裏側から紹介するコンテンツをとある企業に提案したところ採用され、会社を辞めて行くことにしました。
その行動力がすごいです。
当時はまだ回線も不安定な状況。
そんな中、飛び込みロケ番組のように南米を旅し、
今で言うブログ形式で配信していました。
約1ヵ月滞在して日本に帰国し、河内長野に戻りました。
なぜここに決めたかというと、「河内の長野」だから(笑)。
山がそばにある自然豊かな環境でありながら、
大阪市の中心部まで電車で30分という便利さ。
白馬に親しんだ「長野」への思いもあって、迷うことなく決めました。
本格的にスタートするのですね?
日本やインド、バリでの修行にも励みました。
日本で出版されたばかりのヨーガ雑誌の取材で、ロサンゼルスで行われていたロハスフォーラムへ行き、ヨーガと武道をかけ合わせた「budokon」創始者のキャメロン・シェイン氏と出会い、意気投合。
彼の日本でのプロモーションを行うことになりました。
あの頃はとにかく「ヨーガの魅力をみんなに知ってほしい」という思いでさまざまな活動に取り組んでいましたね。
というように波乱万丈な倉橋さんの人生ですが、まだまだごく一部です。
ここからいよいよ「自転車」との関わりがはじまり、河内長野の地域活性の立役者として存在感を発揮されていきます。その詳細は後編へ。どうぞお楽しみに。